たけふ菊人形のはじまりをもとにした劇です。
終戦後の暗い世相の時代、武生市(現越前市)も例外ではありませんでした。当時の尾崎稲穂市長(武生市第2代市長)は、陰山副議長からの進言により、大阪の枚方市(ひらかたし)で菊人形が成功していることを知りました。ジャーナリスト出身の市長は、なんとか明るく楽しい町をつくりたいとという願いから、武生での菊人形開催をいち早く決断しました。当時、王子保・北日野・北新庄・味真野・白山の各村は、武生市に合併前で、人口も45,000人程度で、財政的にも厳しく、大変な冒険でした。入場者10万人が成功のカギと言われました。

菊人形を展示するにあたり、武生には菊人形をつくる技術者がいません。枚方菊人形では、大西工芸社が、人形師による骨格作りや、菊師による衣装の下地となる胴殻(どうがら)をつくり、菊付けをします。尾崎市長は、枚方で菊人形の開催にかかわっていた大西工芸社に相談し、協力を取り付けます。土田のぶよしは、枚方の大西工芸社社長の役で参加します。是非、ご覧ください。

もともと武生市は北陸随一といわれるほど菊づくりが盛んで、戦前は「園芸倶楽部」、「秋好会」、「国華会」、「菊友会」といった菊づくり名人たちの4つものグループがありました。戦後は、「園芸倶楽部」、「秋好会」の二つの会になっていましたが、秋には寺社の境内で自慢の菊を展示し技を競っていました。武生の菊花展には、大菊、小菊、懸崖、盆栽菊など多彩な作品が陳列され、特に大菊の7本立ては、武生の伝統で名物となっていました。7本立ては、開花鉢は、一鉢であっても見事で、なんとも豪華です。しかし、長年菊栽培に携わった方でも、早春からの苗づくりが必要で栽培期間が長く、摘心のタイミングや7本の高さの調整など仕立てが難しく、栽培が困難です。全国的には、現在でも3本立の栽培が主流です。

尾崎市長は、各団体が協力し合わなければ菊人形は成功できないと考え、団結を働き掛けました。昭和26年秋、これらの会がまとまり「武生菊花同好会」が発足し、菊人形会場に丹精を込めた菊の花を出品することになりました。たけふ菊人形は、このような多くの市民の協力があり、昭和27年に始まりました。
第1回のたけふ菊人形は、事業の成功と言える103,700人の入場者があり、昭和27年11月15日に閉幕しましたました。



「たけふ菊人形」は、江戸時代の園芸文化を背景に、昭和期の地域活性化策と市民・菊愛好家の協力によって誕生し、現在も伝統工芸・園芸文化として継承されています。北陸の秋を彩る「たけふ菊人形」として、市民はもちろん多くの県外の方からも親しまれています。今日では、菊づくりの後継者不足、夏場の異常な高温、シェード栽培(本来は11月上旬に満開を迎える菊花を10月上旬への開花促進栽培)などの課題をかかえながらも、多くの関係者のご尽力により、多くの方々の楽しみとなっています。

