古代帆山寺についての考察

私は、帆山町の区長の時に何かと帆山のことを尋ねられた。「土田区長さんに聞くとわかるかも?」との淡い期待で聞いてきたのだろう。残念ながら、実は知らないことばかり。何かと図書館に通った。いろいろ学んだ。この学びは、尋ねられたこと以外にも広がっていった。私たちが慣れ親しんで呼んでいる村国山は、かつては「ほ山」とよばれていたことを知り、さらに「古代帆山寺は、越前国の国分寺」ではなかろうか、との提案を抱くようになった。以下、なぜこのような提案を抱くようになったのかを記載する。ご笑納いただければ幸いの限り。

1 はじめに

私たちの越前市は、古くから越の国の交通、経済、文化の中心地として栄え、国府が置かれてからはさらに政治の中心地となった。これは、かなり長期にわたる。

しかし、地方政治・経済・文化・交通の中心地であったがために、戦いに巻き込まれ貴重な文化財や歴史資料を失った。最も痛ましいのは、織田信長が、朝倉征伐と一向一揆制圧のため二度にわたり今の越前市域に入ってきたことだ。主要な建物や寺院が灰と化し、今の越前市域で2千人以上の死者がでた。甚大な惨状が想像できる。

これらが原因であろうか、大国「越前の国」の国府(いわゆる首都にある国庁)や国分寺の場所がいまだにはっきりしていない。

それ故に、令和3年5月20日付の福井新聞では、福井市朝宮町にある麻宮大社遺跡が越前国分寺であったとする新説が紹介されている。

実は私たちは、貴重な文化財や歴史資料を完全に失ってしまったわけではない。これらの宝の山の上にいるのだ。磨けば磨くほど、本物の宝になっていくものばかりだ。明らかにすることは、私たちが、郷土の一員として先人の残してくれた文化を受けつぎ、ふるさとに愛着と誇りを持つためにも大切なことだ。

 考察の内容

現在の京町1丁目の国分寺は、敷地規模、伽藍、周辺の発掘調査から、創立当初からこの地にあったとは考えられていない。また、大虫廃寺、野々宮廃寺、深草廃寺等においても国分寺候補に挙がり発掘調査をしたが、創建時代が古く合わない。

「国大寺」「国寺」などの墨書土器や瓦が出土した現越前市庁舎西付近にあったとする説が有力視されているが、他説を封じるまでには至っていない。

このような背景のなか、従来の考えを踏まえつつも、新たな提案をしたい。「古代帆山寺は、越前国の国分寺」ではなかろうか、との提案だ。 以下、提案の根拠を記載する。

 国分寺とは(おさらい)

聖武天皇は、仏の力により国家の平安を得ようと、 天平 13 年(741 年)に諸国に国分寺、国分尼寺建立の詔 (みことのり)を出し、当時の日本の各国に建立を命じた。

国分寺の多くは国府区域内かその周辺に置かれ、七堂伽藍や七重の塔を有するなど国庁とともにその国の最大の建築物であった。

七堂伽藍

 古代帆山寺の位置

古代帆山寺の場所は、清い日野の流れがあり自然環境に優れ、国府から見える村国山の西側ふもとの静寂な越前市村国1丁目(旧帆山町観音谷)であり、国府の東方に位置し、帆山寺の所有する山林が広がる地域だ。

国府に近く清浄な場所であり、清い日野の流れが近くにありながら少し小高いため水害がなく、仰ぎ見るのによい地形。また、国府に近いにもかかわらず、人家の雑踏から離れている場所である。

日野川に橋がなかった古代には、往来に困難が予想されるが、継体天皇が上洛する折に御鳳車で帆山神社に参拝の記録があり、帆山地籍には日野川を渡る「渡し」が早くからあり、古代より交通の要所である北陸道への往来は十分にできていたと推測される。なお、日野川が濁流となり参拝が困難なことも想定し、日野川左岸に遥拝所を設けていた。

5 古代は、村国山が「ほ山」と呼ばれていた

村国山は、古代には「ほ山」と呼ばれ、現在の村国山の地名は、8世紀の一時期にこの地を支配していた村国氏(美濃国 出身の村国虫麻呂が一時期越前国に赴任)に関係があると言われている。ほ山の「ほ」は、高く秀でているとか、神聖とか光り輝くとかの意味で、「聖なるものが下りてくる場所」を意味する信仰の山と、言われている。この山頂付近に、帆山神社が祀られていた。この周辺地域では最も古い社で式内社だ。

 帆山寺の由緒

帆山寺縁起によると、聖武天皇の勅願により天平 宝勝元年(749 年)、越前国帆山村観音谷に建立。その後、信長との戦いに破れ、遥拝所だった現在地に移転した。

 古地図が示す国分寺との縁(国分寺除地)

明治8年の越前国武生市街分間図に、現在の帆山寺(住吉町)域が、国分寺除地と記載されている。帆山寺は、国分寺を理由に税金が免除されている旨の表記。国分寺の用地であったことを示すものといえる。

明治八年越前国武生市街分間図 「武生市史概説編 付録地図」より抜粋

 古代帆山寺と大門(大門通り・大門河原村・帆山寺観音大門)の関係

かつて、武生の中心部に大門町、大門河原村があった。現在でも通り名は、大門通りとして残っている。この大門は、古くから帆山寺の大門といわれている。近世の石柱には、「くわんおんみち(観音道)東三丁帆山寺」と刻されている。帆山寺まで東330mとの案内だ。古代帆山寺までは、東に1km。

石柱

しかし、この大門や大門通りが現在の帆山寺(住吉町)の参道のために作られたとは、考えにくい。帆山寺の参道に直線でつながらず、また、途中の佐竹商店からは道幅も狭くなり、参道は南側にそれていくからだ。 現在の帆山寺は、天正19年(1591年)に、遥拝所だった場所に、移転したと伝えられている。現在の帆山寺は、のちに作られているため参道がずれているのだ。この大門や大門通りは、「古代帆山寺の大門」であり「古代帆山寺にむけた通り」と考えられる。下記に、位置図を示す。

古代帆山寺と大門の関係

国府から近い古代帆山寺大門からまっすぐ東方向には、七道伽藍の七重の塔を仰ぎ見ることができる。主要道北陸道からの入り口に大門を設け人々をひきつけ、清い流れの日野川を渡ることで清め、そして「聖なるものが下りてくる場所」を意味する信仰の「ほ山」山麓の「観音谷」の七堂伽藍をめざす。 このようなプレリュードを用意した仏教寺院が、古代帆山寺だ。大国の越前国だからこそ建設できた。古代帆山寺は、壮大な構想の下設置された越前国立の寺院と考えたい。

9 信長との戦い(元亀争乱)に敗れ被災した帆山寺宝「如意輪観音坐像」

帆山寺(住吉町)蔵の寺宝である 銅造「如意輪観音坐像」は、越前市の文化財に指定されている。この座像は、火災により損傷している。そして保存箱の墨書によると、帆山寺奥の院の峰の観音の胎内仏であったとされ、元亀の乱にて焼けたことが記載されている。

帆山寺蔵 銅像「如意輪観音座像」

織田信長は、朝倉征伐と一向一揆制圧のため二度にわたり今の越前市域に入った。元亀の乱は、前者の朝倉征伐にあたる。なぜ、信長は、朝倉征伐にあたり古代帆山寺を焼き討ちにしなければならなかったのか。このころ越前府中には、数多くの寺院が建立されていたが、その中で古代帆山寺だけが狙われ焼き討ちにあった理由は何だろう。

10 信長が焼き討ちにしなければならなかった中世の帆山寺

信長は、単に伝統破壊を目指す改革者とは思えない。調略外交が功を奏したり、出陣の軍隊の数が予想以上に確保できたり、軍の士気が高い。当時の課題解決のためのビジョンを示し、人々の共感を得、合理的に理想の実現に邁進したと思える。だから、府中には多くの寺院があったが、無駄に戦いを広げず、寺社では、帆山寺を狙い焼き討ちにした。信長には、敵がはっきりしていた。元亀争乱時の敵は朝倉・浅井連合であり、ここ越前では朝倉のみが敵だ。

戦国大名朝倉氏は、従来の越前国の守護支配の拠点「府中守護所」を継承し、政治や軍事拠点として府中(武生)を重要視した。府中(武生)に「府中奉行」を置き、軍事拠点として強化し、領域支配や越前国一国の重要な徴収賦課などの行政を朝倉氏当主の指導下でおこなっている。

朝倉氏は、帆山寺を府中守護所と同様に継承し、戦乱に備えた軍事拠点の一つとしていたと考えられまいか。帆山寺が越前国立の寺院であったとすると、それも可能だ。中世の帆山寺は、越前国立の寺院であるがため、朝倉氏に引き継がれ、乱世の中、重要な軍事拠点ともなり、信長との戦いに関わり、敗れ、一乗谷の滅亡に先駆け 焼き討ちにあったと考えられる。

11 まとめ

提案の根拠をまとめると次の4つとなる。

①明治8年の越前国武生市街分間図には、現在の帆山寺(住吉町)域が、国分寺除地と記載され、税金が免除されている。現在の帆山寺は、古代帆山寺の元遥拝所地であった。よって、古代帆山寺は、国分寺との因果関係が濃厚である。

②国府のまちなかの大門通りは、古代帆山寺の大門由来と考えられる。寺から約1キロ離れた国庁近くの主要道北陸道からの入り口に大門を設け、目貫通り、つまり大門通りから清い日野川の向こうの目視できるところに七重の塔をはじめ七堂伽藍を配置し、他国からの訪問者に平安文化都市と大国を印象付けた。そして、国庁へ向かわせた。越前国立だからこそ建設できたと考えられる。当時、国立(官立)で建設がすすめられた寺は、国分寺又は、国分尼寺であり、壮大な都市計画の中に設立されている古代帆山寺は、越前国立「国分寺」と考えたい。

③中世の帆山寺は、越前国立の寺院、つまり、国分寺であるがため、朝倉氏に引き継ぎ支配され、越前国支配の重要な軍事的拠点ともなり、信長との戦い(元亀争乱)に関わり、敗れ、焼き討ちにあった。焼けただれた帆山寺宝「如意輪観音坐像」が、それを物語る。

④帆山寺由緒では、奈良時代の創建、聖武天皇の勅願により建設としており、この地に国分寺と無関係に勅願の寺が建立されたとは考えられない。また、奈良時代創建、聖武天皇の勅願とする由緒を持つ寺院は、古代帆山寺と京町一丁目の現在の国分寺があるのみで、他にない。

以上のことから、帆山町観音谷に存在した古代帆山寺こそが、実は越前国の国分寺と提案し、本市の宝磨きに一石を投じたい。

明らかにできるよう公的機関による発掘調査が望まれる。早期の発掘調査を期待したい。

※ 土田信義

・元帆山区長・元福井県文化財保護指導委員・元越前市職員

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