越前万歳は、国指定重要無形民俗文化財です。越前市自慢の伝統ある郷土芸能です。
この越前市味真野地区に伝わる国の重要無形民俗文化財「越前万歳」の保存会名誉顧問 堀 立熙(ほり・りゅうき)先生が、先月亡くなりました。91才でした。元武生市武生第6中学校の校長先生です。もしも、堀先生のご尽力がなかったらこの民俗文化財は、今日のように継承されていたでしょうか。保存継承にむけた堀先生のご尽力に感謝します。自宅は越前市文室町。「子安観音」で有名な正高寺の住職でした。先生のご功績を称え、お悔やみ申し上げます。
越前市の武生は古くから開けた町です。また、現在、NHK大河ドラマの「光る君へ」の主人公、紫式部の縁の地です。この平安期には、越前の国府として、国分寺、国分尼寺の堂塔がそびえ、国庁をはじめ官衙が軒を並べていました。現在、この国府の国庁を目指し発掘調査中です。この国府より、12キロほど東へ行った越前市味真野地区の味真野町や上大坪町に伝わるのが、この越前万歳です。
全国には他に、河内、大和、三河、尾張、伊予、島津、秋田万歳があります。
越前万歳は、新春の祝福芸です。かつては「宇津保万歳」とか「野大坪万歳」と言われていました。 小さい締め太鼓をエゴの木で弓形に作ったバチで叩くのが特徴です。起源については、継体天皇時にもさかのぼるともいわれますが、詳細は分かっていません。
地元には、次の伝えがあります。継体天皇が、まだ「おおとのの皇子」と呼ばれ、味真野に住んでいたころです。皇子の愛馬が急にエサを食べなくなりました。そこへ使主智(おむち)というものが、ご馬の前に進み出て宇津保の舞を舞って馬の病を治しました。皇子は喜び、「宇津保万歳」という名をお与えになり、厩の祈祷を行わせたといいます。のちに、皇子は都に迎えられて第二十六代継体天皇となります。宇津保の万歳衆は、召されて公卿百官の前で、この万歳楽を踊ったのですと。
さらに、鎌倉時代には、源頼朝から鎌倉にお呼びがかかり、万歳楽を奏して馬の発乗式の祈祷をしたと伝えられています。その褒美として証文士の位を授けられ諸侯の邸宅に出入りして万歳楽を舞うことが許されたそうです。 時代の権力者からの保護は、江戸時代になっても失われず、福井、鯖江、大野、勝山、さらには、金沢、大聖寺藩まででかけました。元旦の諸藩の大手門は、「宇津保万歳」衆によってあけられたと言われます。加賀藩と「宇津保万歳」との関係は、初代前田利家がかつての府中城(現在の越前市役所地)の城主だったころ、宇津保が領内であったことから、恒例として毎年正月に万歳を招いて舞わせたことから始まったとのことです。そして、藩祖を祭る神社や士族屋敷を巡り、舞を舞ったのです。
しかし、明治維新によりこれらの庇護(スポンサー)がなくなり、安住の世界を失いました。武士社会の崩壊、これで「宇津保万歳」は、大きく変わります。顧客を武士階級から庶民へと開拓します。合わせて、越前各地に宇津保を真似する万歳が興ってきます。武士社会の庇護の中、宇津保の専売特許と思われた万歳が、誰でも参画できる冬場の稼ぎと代わってきたのです。庶民は、神社に奉納するような堅苦しい舞よりも笑いを求めました。万歳師たちは、節の中に猥雑な話し万歳を取り入れていきます。このような中、昭和に入ると、味真野地区内で「宇津保万歳」が、乞食万歳になっているなどと、批判が出てきます。「せっかくの継体天皇様に始まる尊い芸能が、情けない。」さらに、「あんたらの万歳は、公序良俗に反してる。」などです。そして、この地区から急激に万歳人口が減っていったのです。
今日では、掘先生をはじめ、地域の皆様のご尽力により、越前万歳は、伝統的な「お家万歳」「寿」「三番叟」などの復興がなされ、伝承されています。さらに、話し万歳の「東京見物」「交通安全万歳」「たけふ菊人形万歳」など、私たちにわかりやすい現代風の万歳も取り組みが広がっています。今後とも、保存と伝承、広がりを祈念します。